Aトラックという15歳の少年が彗星のごとく現れて、世界最高峰のDJ大会であるDMCで97年に優勝ベルトをかっさらったとき、誰もが衝撃を受けた。15歳とは思えないほどの落ち着きで、高度なジャグリングとスクラッチを披露した彼は、のちに99年と2000年のITFワールド・チャンピオンシップで優勝し、1999年ベスタクス・ワールド・エクストラバガンザと2000年DMCチーム・チャンピオンシップでDJクレイズと共に勝利を手にした。最年少にして彼は世界の3大タイトル(DMC、ITF、ベスタクス)を獲得し、5つのワールド・チャンピオンシップで優勝した唯一のDJとなった。バトル界から引退することを決意したのは、なんと彼が18歳のとき。ターンテーブルを楽器として操るDJのことを"ターンテーブリスト"と呼ぶわけだが、10代の頃からAトラックは既に"世界最高のターンテーブリスト"という称号を獲得したのだ。
Aトラックことアレン・マクロヴィッチは、1982年3月30日、カナダのモントレオールに生まれた。「92,3年にビースティー・ボーイズとサイプレス・ヒルを知ってヒップホップにハマったんだ。ラップを聴けば聴くほど、スクラッチが耳に残ったんだ。僕の兄貴の友人にDJがいたんだ。ある日スクラッチを試してみたらすぐにハマったんだよ。すぐにいくつかのスクラッチ技のやり方が分かったから、ずっと続けることにしたんだ」と言う彼は、わずか13歳のときから父親のターンテーブルでスクラッチするようになった。そんな彼はわずか2年ほどの練習でDMC大会で優勝するまでに至ったわけだが、優勝するとは思っていなかったらしい。「優勝するとは全く予想もつかなかった。
とにかくモントレオールのバトルで優勝したかっただけだよ。モントレオールで優勝した後は、カナダのトップ3に入りたかった。だから一歩ずつ前進していっただけなんだ」弱肉強食のDJバトルの世界でAトラックは常にトップに君臨してきたわけだが、それは彼が革新的でオリジナリティ溢れるルーティーンを披露していたからだ。「バトル時代は大好きだったよ。あの時代が懐かしいね。当時は、スキルが第一で、ターンテーブリズムというアートフォームを前進させることに焦点が置かれていたんだ。バトルを通して学んだことは、ライヴ・パフォーマンスの方法と、自分の限界に挑戦することなんだ。一番思い出深いバトルは97年のDMCだよ。そこから全てが始まったからね。2000年DMCチーム大会も思い出深いよ。そのときに、僕とクレイズは数多くの新しいスタイルを生み出したし、勝算が低くてもスクラッチ・パーヴァーツを彼らのホームグラウンドで負かそうとしたんだ」
そんなとてつもないスキルをもったティーンエイジャーは、当時世界のトップターンテーブリスト集団として知られていたインヴィジブル・スクラッチ・ピクルスのQバートらに認められて、名誉メンバーとして加入した。彼はDJクレイズ、インファマス、ディヴェロップ、スピクタキュラー、Jスモーク、クレヴァーらと最強のDJチームであるアライズを組み、DJバトルのチーム部門を制覇した。「アライズとの素晴らしい思い出がたくさんあるよ。彼らと一緒に育ったようなものだからね。僕らが出てきたとき、スクラッチ・ピクルス、Xメン、それにビート・ジャンキーズを尊敬してたんだ。僕らは次の最強のクルーになって、新たな王朝を築きたかったんだ。僕らはそれを達成したと思うよ。チームとして僕らは新たなサウンドをたくさん生み出したと思う。メンバーと一緒に活動することで、大きなクラウドに通用するような、ロックできるルーティーンを生み出せるように
なったと思う。それに当時の僕のDJセットはクレイズとクレヴァーに影響されてたよ。 アライズは終わったわけじゃなくて、みんなそれぞれのプロジェクトに集中してるんだ」アライズはAllstar Beatdownというバトルを開催したり、バトルDJ用のレコードをリリースし、それぞれのメンバーがDJシーンで活躍し、その名を世界に広めた。
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